where the light is

twice as much ain't twice as good

『野生の思考』

・花火を見に行く途中、バスの中で団地住まいのおばあちゃんと話をした。降りる場所や見るポイントを親切に教えて頂いたのだが、その会話の中で面白いことを考えた。「最近は暑いですね」の会話で、「昔はこんな事は無かった」「最近は地球が怒っている」と言っていたのを聞き、レヴィ・ストロースの『野生の思考』を思い出した。
野生の思考

野生の思考

・科学的思考なら「暑いのが東京なのか/日本全体なのか/地球規模なのか」「いつと比べて暑いのか/気温や湿度のデータはどうか」という分析をするはずだけど、比喩に基づく類推で成り立っている野生の思考では、「気温が暑い」事実と「怒ると熱くなる」現象を紐付けて「地球の怒り」という比喩で説明している、という考え方をする。 ・さらに、おばあちゃんは地震や洪水までも「地球の怒り」に関連づけて説明・納得しようとする。以下に、Wikipediaから『野生の思考』に関する叙述を引用しておく。 “野生の思考とは、ありあわせの素材を用いて入り用の物を作る場合(ブリコラージュ)に例えられ、器用人の思考様式と特徴づけられる。それは、眼前の事象を考える際に、その事象と別の事象との間にある関係に注目し、それと類似する関係性を持つ別の事象群を連想しつつ、それらを再構成することである。そして、それらの事象に異なる意味を与え、新しい「構造」を生み出せる。それは、理論と仮説を通じて考える科学的思考と基本的に同質なものである。両者の相違については、科学的思考が用いるものが「概念」であるのに対して、野生の思考が用いるものは「記号」である。” ・生半可な科学的知識があると、ブリコラージュができなくなるのでは、と思った。そういう意味で、近代教育は科学的イデオロギーに染め上げてしまう洗脳行為だと捉えることもできる。 ・ただ、地球の怒りで片付てしまうと、それに対する対処ができない(儀式とかになってしまう)ので、科学で発展した現代社会では、やはり科学的思考の素地を学習させる必要があるのだろう。 ・そのくせ、ときどきネット上では概念ではなくて比喩を使った言い方を見かける。テレビなんかでもときどき使っている気がする。厳密に言えば、「国益を損なう安倍は辞めろ」みたいな言い方も、「どういう政治的行為がどのように国益を損なうか(国益への定義も必要)」を説明しない点で、野生の思考に近いものがあるように見える。 ・要するに、教養のない(現代社会では教養とは科学的思考を指すと思う。野性的思考の賜物である神話ですら、科学的アプローチで分析される必要がある)はブリコラージュに頼らないと、目の前に起こる現象を説明できない。逆に言えば、相手の教養レベルが分からない場合、雑談の中ではブリコラージュを使ったコミュニケーションが有効だということかも。殊にメディアを使ったマスコミュニケーションにおいては、野生の思考が「わかりやすい」のかもしれない。 ・ふと思ったのだけど、日本は均質カルチャーだからこそ、いつまで経っても分析的なコミュニケーションが主流にならないのではないか(特に同質集団である伝統的な日本企業における、意思決定や業務プロセスの非科学性に辟易する)。 ・レヴィ・ストロースに拠れば、どちらか一方が優れているわけではないが、人の話を『野生の思考』を前提にして聞くと面白いかもしれない。比喩なのか概念なのかに注意して聞くことで、この人はこのことに対して、どういう思考をしているんだろう、の切り分けの第一歩になる気がしている。 ・それにしても、最近めちゃくちゃ暑い。太陽が怒ってるんじゃなかろうか。 東京の夏が「昔より断然暑い」決定的な裏づけ 過去140年の日別平均気温をビジュアル化 https://toyokeizai.net/articles/-/229965 f:id:gakxxxx:20180803091452j:plain