where the light is

twice as much ain't twice as good

自由意志と万能感

「自分には無限の可能性があるという妄想を、多元宇宙論を持ち出して合理化しようとする。選択の対象が抽象的な可能性として、自分から離れて存在している妄想は、あらゆる選択が自由意志で決定されているなら、意思の主体に責任も咎もかかわってくるという、現代社会特有の全能感の産物である」 ある映画のレビューで、こんな文章を読んだ。最も愛する映画の一つであるがゆえに反感を覚えたのだが、落ち着いて読んでみると、自分の軸となっている考え方の「危うさ」をついていると思った。私はこれまで、フェルナンド・ペソアやエーリッヒ・フロム、ニーチェハイデガーを引いたりしながら、「意思」を重視した思考を繰り返してきた。世界はそう、僕の捉え方次第だ、という考え方で生きてきた。でも、これは自分のすべての選択の責任を、自分自身で追わなければならないということだ。 エヴァンゲリオンをはじめとした、サブカルチャー論でセカイ系と呼ばれる作品群がある。こうした物語の主人公は、自分語りを小難しい引用を挟みながら語られる青年期の自意識の鏡であり、自我の危機が即世界の危機に結び付く。言われてみれば先に挙げた作品は典型的なセカイ系の物語だし、いまだにそういうコンテンツに惹きつけられてしまうことを思い返してしまう。 だからこそ、頭に書いた言葉が刺さってしまう。現代社会特有の全能感の産物、たしかにそうなのかも。選ばなかった道の可能性を捨てきれない、厨二病バンザイである。そろそろ卒業したいけど、気が付けばミスチルの歌詞を引用しているし、ヱヴァの最新作の報道に一喜一憂してしまうし、やっぱり好きなんだよなあ。 大好きな映画はこれ。観て。